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今夜の番組チェック

オーナー 殿村雄一
昭和30年12月31日生まれ 本籍 三重県松阪市中町
某大学・スペイン語学科卒業(新婚旅行でバルセロナにいったが数字以外のスペイン語を彼から聞く事は一度もなかった)後、大阪
フジヰ画廊に多数の応募者の中から運良く就職できる。以後、14年半勤めたが
社長の病気の為に閉店になり ギャラリートノムラとして独立した。
昨年、榮海夫人の強烈な脅しと説得により現在の場所に移転し貸しギャラリーも始めた。
ですから・・・いつもギャラリーでニタニタ・うろうろしていますが、れっきとした美術品商
いわゆる 画商です。
榮海夫人より・・・画家かミュージシャンと結婚したかったのですが、縁がなく画商もステキと一緒になったのですが想像以上に大変な割りにおもしろくないし、儲からない、だいたい取り扱いが物故作家中心なので芸術性は高いのかもしれないが、顔のみえない
人柄の分からない人の何十万何百万何千万の作品を人にすすめるより(バカバカ売れればいいけどね)、これからの人の未来の作家と共に進む方が、やりがいがある!
これからの時代は、若い世代が作っていくんだから 少しでも関わりながら 感性を磨くことこそが
これまでにしこたま儲けた偉そうなおじさん画商に対抗できると思いませんか? |

Photo by TARUI.Riwa |
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大阪フジヰ画廊での逸話
大阪フジヰ画廊は、東京銀座にある フジヰ画廊の兄弟店であり、社長は東京在住の方で
経営方針も大阪の他の画廊とずいぶん違っていたそうです。また、社長は大変気の短い方で有名だったそうで、例えば社長を乗せてベンツを運転していて、渋滞に出くわすとすると「殿村君、歩道が空いてるじゃないか!」といわれ、殿村は反論せず歩道を走ったらしいです。
同じ時期に他店で仕事をしていた仲間の証言によると社長が、イライラした顔付きになると
どこからか 殿村君が現れて さっとタバコを差し出す姿に頭が下がったという。
社長が吸うタバコは、普通の店で販売されているような銘柄でなく殿村は、いつも買い置きをして
上着の両ポケットに2・3個用意していたという事です。社長が 顔色を変えたり、なにか言いかけた時は
話を聞く前に何を言いたいのか、察して動かなければいけない たとえば 外出に同行しているときに先回りして
ドアを開ける事はもちろん自動ドアでも 開けて待っていたとかいないとか?
だが、とても気前の良い方で 機嫌の良い時は
「ちょと 松崎(淀屋橋の一着2・30万するオーダースーツ店)に行って
オーダーしてきなさい」と言って、何着か作ってもらったそうだ
・・・現在そのスーツはふとってまったく着れない!本当にもったいない・・・ |
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殿村が画商になったのは、実は 祖父が「小霞」という雅号で日本画家
(現在の東京芸大の第一期卒業で、「横山大観」と一緒に学んでいた)だった事の影響に
よる。江戸中期には、豪商と言われ 松阪木綿・両替商を営んでいた殿村家は
この祖父に
・・・ただ絵だけを描いていれば良いので・・・と 言われ養子に来てもらった。
そして 祖父は言われたとおり 本当に商売しないで松阪には、墓だけしか残さずこの世を去った。
・・・この祖父の血を強く受け継いでるのでは・・・

殿村家伝について
ここからは、読みかたによると単なるお家自慢なんですが 私は少し歴史が好きで
いろいろ 姑やトノムラの叔母から聞かされる 松阪での殿村家自慢が“どこまで
本当なのか”と
調べてみたら もし私が小説家なら、歴史小説に書きたいぐらいすごいご先祖様がいる事を
知りました。トノムラの父の本家筋になるのですが、こんな ステキで豪快なご先祖さまの
血を引いているんだから 少しでも刺激されて 世の中の文化の為に貢献する
画商・ギャラリーになれるように、これからいろいろ調べながら殿村家伝を このページで紹介したいと思って制作しております。
 
姓氏家系大辞典(太田亮)で殿村を引くと、
上記のような記載があります。
殿村家の姓は大神、紋は 左三つ巴です。
1にある同じ伊勢国安濃郡殿村より起こった 中臣氏族とは代々伊勢神宮の宮司などの職に就いている事が記載されている中臣氏族と同じ姓・紋なので、なにかしら関係があると思われますがこれは
これからの課題です。
中臣氏
古代の一族として有名な中臣氏についても考えてみます。
中臣氏の始祖は、天兒屋根尊とされています。
古事記で、天照大神の岩戸隠れの際、重要な働きをしています。
天兒屋根尊の22世の孫が中臣鎌足です。
@平凡社『日本史大事典』
祭主(さいしゅ)祭りの主宰者、とくに伊勢神宮の神官(神職)の一つを指す。「続日本後紀(しょくにほんこうき)」嘉祥3年(850)3月3日の大中臣淵魚(おおなかとみのふちな)の卒伝(そつでん)に、815年(弘仁6)から842年(承和9)まで伊勢大神宮祭主を兼ねたとあるのが、文献上の初見とされる。神宮おけるいっさいの政務をつかさどったところから惣官(そうかん)ともいった。
「延喜式」に、祭主は神祇官に勤める五位以上の中臣氏のなかから選任し、その職掌を神宮への年四度使と神宮司(じんぐうし)へ下す公文書に必ず署名することと規定している。平安末期以降は伊勢に居宅を構える祭主も現れ、巨大な荘園を所有し、また伊勢と中央との文化交流に大きく貢献した。16世紀半ばから大中臣姓を名乗る藤波家の世襲するところとなり、明治に至った。 |
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これは松阪市史第12巻(1983年発行)に記載されている家系図です。もっと詳細な、松阪中町殿村家家系譜大略が三重県史談会会誌が本になって
大正1年に出版されているのですが 松阪の大火災で焼けてしまい三重県立図書館に記載されているだろうと推定される一巻のみが保管されているらしい
これは 次のお墓参りの時の課題にします。殿村本家を継ぐものは、代々 佐吾平を名乗っています。
*殿村家の中で、商売でも文化にも大きく貢献したこれから中心に紹介していきたいご先祖が
大きい画像の左上に記載されている
佐五平(道誠)名を安守 号:篠斎、三枝園、篠舎、蝙蝠麿、嬬麿と名のった方です。 |
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姓:大神 代々当主は「佐五平」を名乗る
1750 寛永3年 殿村家(木綿店、両替店)創業
1753 宝暦3年 江戸大伝馬町「町金指引帳」に 殿村治右 衛門の 名があげられている
1755 宝暦5年 「松阪御為替組」に加えられ、殿村宗右衛門が元取りを命ぜられる
1757 宝暦7年 ・本居舜庵(本居宣長)松阪本町に開業
1758 宝暦8年 ・ 宣長、国学の塾「鈴之屋」を開く
1778 安永8年 ★殿村助吉生まれる・後に本家に養子に入り佐五平、実名を安守と名乗る
(号を篠斎、三枝園、篠舎、蝙蝠麿、嬬麿)
★殿村万蔵まれる(安守の異母兄弟)生まれる(号を常久、巌軒、蟹麿)
1788 天明8年 ★殿村精吉まれる(殿村分家) 字を守親、(号を檪亭琴魚)
(若くして京都の殿村の店の手代として住こむ)
1790 寛政2年 ・曲亭馬琴、山東京伝に入門
1791 寛政3年 殿村家・小津家共同で、2万5千両の御用金を上納(長谷川家記録)
1794 寛政6年 ・殿村安守、鈴之屋門人となる
1818 文政元年 ・「犬夷評判記」出版、殿村安守三枝園主人、殿村精吉=檪亭琴魚
1822 文政5年 紀州藩、松阪銀札発行に祭し、御為替組として発行元となる
(この際大坂堂島の銀座會所に居た殿村精吉こと琴魚が銀札の木版を注文した)
1830 文政13年 ・殿村万蔵こと殿村常久、享年52才で没・巌軒了居士と謚し、
松阪常念寺に葬られる
1831 天保2年 ・殿村精吉こと檪亭琴魚、享年44才で没・檪亭道香居士と謚し、
松阪日野町眞宗寂光山願寺に葬られる
(松阪の村田氏家稱地屋に婿養子に迎えられた説あり)
1832 天保3年 ○
1847 弘化4年 ・殿村佐五平こと殿村安守、享年69才で没・實心院意正道誠居士と謚し、
松阪常念寺に葬られる
1862 文久2年 須賀伊平とともに、砂糖問屋を仰せつかる
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左表の★印の3人が、様々な形で江戸の文化に関わり活躍した殿村家一族を、自慢の人物です。その中でも、当主であった安永8年
生まれの殿村助吉・後に本家に養子に入り 佐五平、実名を安守と名乗った(号を篠斎、三枝園、篠舎、蝙蝠麿、嬬麿)を中心にご紹介します。
松阪きっての豪商の当主であり、相当剛腹で個性の強い人物であった安守が、生涯で激烈に打ち込んだ人物が三人ある。第一は国学者「本居宣長」であり、第二は宣長の息子「春庭」であり、第三が馬琴です。安守の影響を受け、支えた
殿村家一族である
殿村万蔵(安守の異母兄弟)(号を常久、巌軒、蟹麿)
殿村精吉(殿村分家・安守の妻の弟) 字を守親、(号を檪亭琴魚) |

1818 文政元年出版 「犬夷評記」
滝沢馬琴(曲亭馬琴)答 殿村安守評 殿村琴魚編
「八犬伝」の絵師柳川重信の手になる表紙・・・読本批評あるいわ江戸時代の小説批評である
おそらく画証としては最もふるいものであろう |
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上段の本居宣長の軸が掛けてある床の間を背にしているのが、主人であり評者であるところの三枝園主人。本文中では「三四」としてある。三枝園篠斎、通称安守は伊勢松阪の富豪(木綿問屋)、後、松阪御為替組の一人となる。
一方、本居宣長の晩年の弟子として可愛がられ、歌文をよくした。足立巻一氏の「やちまた」S49年によれば、宣長没後、目の不自由な宣長の子実子春庭を後見し、文政六年に平田篤胤が松阪を訪れた際に、殿村常久、小津久足(桂窓)、富樫広陰の三人に応対させたのも篠斎の差配であったようだ。馬琴の四友のうちの一人で、終生変わらぬ友情を保った。また馬琴との評答活動においては、評者中随一の理解力を示している。
また、その左の琴魚柄の羽織を着て書物を開いているのが櫟亭琴魚、本文中では「琴魚」「魚」としてある。本名殿村精吉、篠斎の妻の弟といわれ、手代として京、大坂の滞在が多かったようだ。下段の一番左の頭巾を被り眼鏡をかけた老婦人は、馬琴ではないかという説もある。
中村幸彦氏は「読本の読者」(『中村幸彦著述集』第五巻)において「三四庵即ちこの評判記の著者三枝園殿村篠斎の如きは(中略)批評家であって、言わば、読者のチャンピオンである。現在においても、批評家と読者は一つにできぬ。
ここの「よみ本好き」の如きは先ず当時の数多い読者の実態を示すものであったろう。」としておられる。つまり「ひいき」とか「よみ本好キ」と言われる者の大部分は、単に読本の波乱万丈のプロットを追うことに熱中するだけで、読本の持つ「深イ意味ハしるよしもかな」かったのである。そしてその「深ィ意味」を理解できたのは、篠斎のような「和漢と雅楽」を共に解し楽しむ識者だけだったのである。と記載している。
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トノムラ夫人のヒ*ミ*ツ